シアタービューフクオカで絶賛連載中のハイバイ・岩井秀人氏のコラム「岩井の好きな映画」。本誌と併せてお楽しみください!

ハイバイ・岩井秀人コラム【岩井の好きな映画】vol.57

ここ最近、特に映画を見なくなった気がする。元々、本も読まないのだが、映画に関しては10代20代の頃によく見ていたが、年を追うごとに見なくなってきたように思える。これは演劇に関してもそうなのだが、「映画や演劇を見なくなったこと」に対する自分の中での理由付けというか、関連付けとしては「自分が映画に関わるようになった」ということが大きく影響している気がする。そしてこれは決して「映画」や「演劇」に限ったことではないように思う。
例えば「ヤカン」でもいい。(今これを書いている机の上に小さなヤカンがあったので。)一般的に「ヤカン」は、「水を入れ湯を沸かすモノ」だ。そのためのモノとして、特に他の要素について考えずに私たちは認識し、ヤカンをヤカンとして使っている。だけど例えば、私たちが今見ている「ヤカン」も、「ヤカンを10年以上作ってきた者」から見たら、かなり違ったものになると思う。もちろん「水を入れ、湯を沸かす」という用途という認識は変わらないが、「ヤカンを10年以上作ってきた者」からすると、その「ヤカン」は、さらに細かい要素に分解される。その「ヤカン」を構成する素材や形状、注ぎ口や持ち手の加工や厚み等、「ヤカン」ではなかったものが様々な工程を経て「ヤカン」になるに至った経緯を考える。そして、例えば持ち手の部分に違和感を感じたり、注ぎ口の広さに全く納得がいかなかったりする。
話を映画や演劇に戻す。同じ「人間を題材にした表現」として、僕もその表現活動に20年以上関わってきたわけだから、「ヤカン」の件と同じように、「演劇」も「映画」も決してシンプルに「映画だ」とも「演劇だ」とも思えなくなっているのだと思う。
昔はもっともっと単純に「夢」のような存在で、「夢」だからこそ「嘘か本当か」なんて問いはなく、没入できた。そして自分がちょっと出演したり、脚本を書くようになってからは、その鉄壁を誇っていた「夢」に綺麗に「ヒビ」が入った。「ヒビ」という書き方をしたが、それは否定的な意味ではなく、「信じられるモノ」「信じられないモノ」という尺度や、作られ方、脚本や俳優の配置や演出の付け方から作り手が何を信じようとしているか、ということを想像できるようになったことから、「この映画信じてもいいモノかどうか」というような尺度も持てるようになったわけで、「映画ならなんでもいい」という訳ではなくなったということだから、単純に分別がついたようなものだと思う。否定的な意味ではないけれど、幸福かどうかと言われると、なにも知らないで見ていた頃の方が、明らかに幸福ではある気がする。今となっては「映画や演劇を観る」ということは、感覚としては「仕事」に分類されている。
作られる過程だけではなく、作られた後の時間も想像するようになったことも、上に書いた感覚に至った大きな要因かもしれない。作品を見てもらったお客さんとの数々の対話から、自分の作ったものが現実になんらかの影響を与える訳で、そこに対する想像がないまま作られた作品には、なんとも力が抜けるというか、げんなりするようになってしまった。「好きな映画」の話はどこに行った!?

いわい ひでと/1974年生まれ。劇作家・演出家・俳優、ハイバイのリーダー。「ある女」で第57回岸田國士戯曲賞を受賞。

http://hi-bye.net/

◎シアタービューフクオカ vol.81掲載(2019.10発行)