シアタービューフクオカで絶賛連載中のハイバイ・岩井秀人氏のコラム「岩井の好きな映画」。本誌と併せてお楽しみください!

ハイバイ・岩井秀人コラム【岩井の好きな映画】vol.54「ハイバイ15周年漂流記」

ちょうど先日、全国旅公演を終えた「世界は一人」の公演記念として、日本映画専門チャンネルがハイバイ並びに男岩井の作品を放映してくれているのだが、ハイバイの代表作「て」「おとこたち」に混じって、ドキュメントが潜んでいる。その名も「ハイバイ15周年漂流記」である。
このドキュメントは、去年ハイバイが2作品同時上演した「て」と「夫婦」の稽古場から本番までを追ったものだ。「て」は12年ほど前に祖母が認知症になったのをきっかけに家族が再集結しようとして失敗し、結局、横暴な父によって以前よりまあまあ仲が悪くなる、といった内容で、僕自身の家族の物語だ。そして「夫婦」では、その父が、自分の仕事でもある外科治療を受け、ほぼ医療過誤で死に、その死にまつわる家族の物語だ。両方とも再演で、初演では演じなかったが「夫婦」でとんでもない死に方をする父をわたくし、岩井が演じることになった。

「私小説」ならぬ「私演劇」と呼ばれて久しいが、こうして改めて客観的に自分の稽古場を見てみるのも貴重な体験だった。書かれた台本を、集まった俳優が自分たちの役について考え、本番に臨む。これが通常の演劇だとしたら、「私演劇」は、そこに一人(俺)、台本の当事者がいる。現実では凄惨な空気だった家族の確執がセリフとなり、劇団員たちによって立体的になるのを見て、岩井はゲラゲラ笑っている。なんなんだこいつは。何を笑っているのだ。しかし、これこそが僕がやってきたことなんだ。我ながら、改めて不思議な活動をしていると思うと同時に、だからこそフィクションをやる意味が全く自分の中に見つけられずにいる。特にフィクションをやる意味を探してもいないけど。だって、意味しかないんだもの。自分自身に起きたことを演劇にすることって。自分の身に起きたことを再確認するために戯曲にすることも自己治療みたいなものなら、そこからさらに俳優たちにその現実の再現に近いことを求め、やがて立体的に舞台上に現れた我が家族の状況を、物好きな観客たちの前で再現する。観客は笑い、時に泣く。つまり、僕の身に起きたことについて、観客が感情を使って関わってくれる。これ以上のことがあるだろうか。そんなことを考えながら見ていたら、映像の中、稽古が進み岩井が岩井の父を演じる段階に入る。あれほど忌み嫌い、なんども「どうやって殺そうか」と考えていた相手をわざわざ演じる。ときおり夜中にNHKで流れる「~~交響楽団」のオーケストラを大音量で、酔ったままカセットコンロの脇に転がっていた割り箸で大興奮してテレビ画面に向かって指揮をする父。僕はその興奮の様が嫌いだったし、2階の自分の部屋にいてもその父の興奮による「はっ!ずぇっ!」っといった爆ぜる声が聞こえてくると、決まって動悸がした。ドキュメントでは、その割り箸をオーケストラに向かってぶん回す岩井の様子が映っていた。やはり「何をしてるんだ、こいつは」だ。
演劇には定義がない。そこがいいところだと思っている。こういう奴がいても、よかろう。演劇に定義があるとすれば、「作る者によって、常に拡張し続けられるもの」だと思う。そもそも僕がやってることは、演劇ではなかったかもしれないけど、今となっては演劇の仲間に入れてもらっているような気もする。もし仲間に入れてもらえてなかったら、一体どんな名前がつく作業なのだろうか。皆様もぜひご覧いただき、考えてもらいたい。

いわい ひでと/1974年生まれ。劇作家・演出家・俳優、ハイバイのリーダー。「ある女」で第57回岸田國士戯曲賞を受賞。

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◎シアタービューフクオカ vol.78掲載(2019.4発行)